2011年11月15日火曜日

ラブ・ミー・テンダー / Love Me Tender




ラブ・ミー・テンダー 

       / Love Me Tender


自分にはお経も、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・・般若心経のこともわかりません。その代わりに「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」というようにしています。

知らない外国の町を歩くときも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」と唱えます。気分は般若心経ですが、言葉は「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」です。


イスタンブールでも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」
モントリオールでも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」♪
ロッキー山脈でも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」♪
北京でも、やっぱり「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」♪


人は言葉で考えますが、言葉で語れないこともあります。言葉にならないけど分かる気持ちといのもあります。



世の中うまくいかないことが多いものですね。くよくよしてし主まうことがたくさんあります。くよくよ考えないために、言葉で考ええないようにするのです。頭を使わなくなるためめに何でもいいから口ずさめばいいのです。空念仏です。それが「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」です。




大好きだったあの娘が、じっと見つめて泣いていたことがあります。


そのとき、なぜ泣いているのか、分りませんでした。
後で分ったことですが、それが彼女を見た最後の日だったのです。


この世界には「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」でしか語れない大事なものがあるのです。
打算も計算もない、かけがえのない世界。空(くう)のなかに真実がある。


悲しくなったら「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」
うれしいときにも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」
ハラがたったら「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」
たのしいときにも「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」

「らぶみーてんだ~、らぶみ~すい~と」は魔法の言葉。


1969年の Love Me Tenderは不思議な言葉

2011年6月26日日曜日

This Time / Suspicious Minds~THE MEMPHIS 1969 ANTHOLOGY



This Time / Suspicious Minds~THE MEMPHIS 1969 ANTHOLOGY

全編にジャズのビートが漂う五木寛之初期の小説「さらばモスクワ愚連隊」の一節に「素晴らしい芸術は素晴らしい魂から生まれるとは限らない」という意味の台詞がある。

「Suspicious Minds~THE MEMPHIS 1969 ANTHOLOGY」のDISC-2の最初の出だしの声を聴いたら、その言葉は声と共に遠くに消え去っていかざるを得ない。----<This Time >エルヴィスの声が楽器よりも先に飛び出す----<愛さずにいられない>を始める前にいつものおふざけで歌われた曲。ほんの僅かしか歌われないが、ここには素晴らしい魂が存在していると確信するだろう。

確信するのに1秒とかからない。カリスマの声から伝わる柔らかい心の感触が聴く者の心を癒していく。声に宿るハグの感触が空間に漂い、聴く者をそっと抱きしめる。それは贅沢な時間。情報が氾濫しゆっくりと過ごす時間が損なわれがちな傾向にある日々、誰もが自分を失いがちになる暮らし、「キミはキミでいいんだよ」ってささやくような声でもある。

<Who Am I? ><Do You Know Who I Am? >や <True Love Travels On A Gravel Road>等など間違いなく、このしなやかな、柔らかい心はそう言ってると確信する。切ない情感がほのかに聴くものの身辺に煙草のけむりのように、しかしその香りはあくまで甘さに包まれながら流れていく。「傷つくのも、傷つけるのもいやだよね」って言ってるようだ。

「Suspicious Minds~THE MEMPHIS 1969 ANTHOLOGY」はエルヴィスに音楽的自信を取り戻させた68年の『NBCTVスペシャル』の後、<From Elvis in Memphis><Back In Memphis>をリリースするために行われた69年1月のセッションを収録したもの。
正式リリースされたテイクとその他のテイクで構成されていて、そのどれもがソウルフルで優しさと強さに満ちている。

それはまるで<Only The Strong Survive /強く生きよう>が具現化されたようなセッションだ。そのプロセスを通じて、エルヴィスに、確かなアイデンティティを思い起させ、歩むべき道標を与えた、真のターニング・ポイントとなったと言えるだろう。
エルヴィス・プレスリーが無意識の内に、類い稀なる才能を封じ込めた幾多の忌わしい「契約」というロックロール史上最大の悲劇に対峙したような結果になったこの歴史的なセッションが行われたのはメンフィスの『アメリカン・スタジオ』。

13才でメンフィスに引っ越し、19才で地元のサン・スタジオに飛び込み、ついに栄光の1956年。母グラディスに「グレイスランド」をプレゼントした、それは「約束の地」での出来事だった。偶然というには余りにも運命的であり、運命とはそんなものだと教えているかのようでもある。

このセッションはこのアルバムに先立って『ザ・メンフィス・レコード』のタイトルで一度リーリースされている。しかし音質がよくなく、オリジナルにはある音がなかったりと、非常に評判の悪いものだった。

THE MEMPHIS 1969 ANTHOLOGYはエルヴィスのアルバムの中でも際立ったもので、そのオリジナルがブルースであれ、カントリーであれ、成熟した形で蘇ったロックンロール・フィリーングによってスタイルは完全にエルヴィスの自然体に昇華された状態を伝えている。エルヴィスとともに、ホルンが、ストリングスが、コーラスが、まるで火の玉のように「絆」となって歌っているようでさえある。

伝記『LAST TRAIN TO MEMPHIS/ エルヴィス登場!!』を出版したピーター・ギュラルニックのライナーノーツを前田絢子さんが翻訳したものが添付されている。その中の一節。

たとえエルヴィス・プレスリーの歌を一度も聴いたことがなかったとしても、その晩に行われた、これら細心の注意が傾けられた23のテークを聴けば、ただ脱帽せざるを得ないだろう。歌は、まったく気取らず、ほとんど透明なまでに雄弁で、単純さの中に静かな自信が込められ、それら全体が、アメリカンのスタイルの特徴であるエレガントで、飾り気のない小さなグループのパッキングによって支えられている。こうして、ほとんど否定しがたい主張ができ上がった。後で、ドラマチックな味付けを添えるために、ホルンとヴォイスがこれにオーヴァーダブされることになる。しかし、最初のテークには、一種の優しさが聞こえてくる。それは、エルヴィスが初めてサム・フィリップスのスタジオを訪れた時を思い起こさせるほどで、熱い憧れと社会的同情とを訴える声が聞こえてくる。ミュージシャンたちには、これが決め手になった。アメリカンのレギュラーで、トランペット奏者のウェイン・ジャクソンは、オーヴァーダブの前にこのセッションを観察していて、こう言った。「彼の歌は、まったくすごい。初めて『イン・ザ・ゲットー』を間いたときは、やたらしみったれた歌だと思っただけだった。それが、参ったよ。すごいんだから。最高だよ」。歌が発展していく過程で、いくつかの小さな修正がほどこされ、エルヴィスは自分の間違いをすぐ認め、進んでそこを直した。その情景を見ていた者は、もしも以後も一貫してエルヴィスが、芸術としてレコーディングに関わることができたとした5、こうなるに違いないという方向をはっきりと見せつけられたものだった。その間もずっと、普段は角のある人物と思われているチップス・モーマンが、おだやかで控えめな態度に終始し、まるでセッション・ミュージシャンとエルヴィスが見事に調整された一つの楽器であるかのように、全員を激励して、セッションを動かし続けた。

「Suspicious Minds」
の後、エルヴィス・プレスリーは生き様のようなライブを続けた。時に生気溢れ、時にだらしなく、苦悩し、転がるように生身をさらけ出したライブであり、あの「エルヴィス・オン・ステージ」にとらえられた活気に満ちたパフォーマンスさえ、知る者には手抜きしていると言わせた。「エルヴィスはあんなものじゃないよ。」と。

2011年2月4日金曜日

イン・ザ・ゲットー / IN THW GETTO


イン・ザ・ゲットー / IN THW GETTO

エルヴィス・プレスリーらしくない歌です。

嘘っぽいのです。

そういうと、叱られるかも知れませんが、そう思っている人は多いと思います。

しかし、エルヴィスは長い間、寄付をしてきました。そういう目線に合わせるとおかしくないかも知れません。

でも、この歌はその範囲を超えているように思います。



ゲットーとは何でしょうか?

特定のエリアと判断すればいいのでしょう。



ボクたちは、共同体の中で暮らしています。
いろんな共同体がありますが、グローバルが最大の共同体として、小さなものでは家族がそうです。

問題を起す人々の特長は、共同体感覚の欠如があげられます。
共同体感覚がないと人生の建設的な側面から離れていく方向へ向かってしまいます。
いわゆるアウトサイダーです。

これらの人々を犯罪、中毒、精神障害へ誘導しますが、
人々へ関心を持つように導くことが最大の援助ではないでしょうか?


他者と関わるより、自分への関心が強く、疎外感から、他者への依存度を深めるものの、自分への誤った理解と関心が高いために、他者を信じられないため、構造的な不安に苛まれるために、消極的な攻撃性が強くなつったり、回避的になったりします。
どうしても敬遠させがちになります。



青年が死んでいった
曇った寒いシカゴの朝
また別の貧しい赤ん坊が生まれる
ゲットーの中で
そして赤ん坊の母親は嘆く

この歌詞は、一人の人間の中で起っている状態でもあります。
同時に同種の人が集まったアウトサイダーの集団であるひとつの共同体、つまりゲットーで起こります。

ひとりひとりを救助しない限り、
ゲットーへの救いの手は届きません。

・・・エルヴィスは歌います・・・

♪目分自身に目を向けろ
我々には何も見えないのか
クルリと向きを変えて
見て見ぬふりをしているのか

そして時は過ぎ
鼻をたらした空腹の少年が
冷たい風の吹く中、通りで遊ぶ
ゲットーの中で♪


救うためには、ひとりの人を救うには、その人に仲間へのまなざしを持たせ、共同体への関心を強めさせることです。

あなたの仲間のためにあなたが出来ることは何か?
それを実行することがあなたにはできるはず。
あなたの助けを求めている人がすぐ近くにいる。

他者を助けようとするとき、自分を救い出すことができます。

結局、他者への無償の愛こそが、自分への愛だというところにたどり着きます。


エルヴィスは歌います。

♪ そしてある晩、ヤケになり
無我夢中で走り出す
銃を買い、車を盗み
逃げようとするが、遠くへは行けず
彼の母親が泣く
荒んだ青年の回りには人たかり
銃を片手に、うつ伏せで死んでいる
ゲットーの中で ♪



この青年や母親はどこにいるのでしょうか?
それは自分の子かも知れません。
職場の同僚かも、上司かも知れません。
隣の奥さんかも知れません。学校の先生かも知れません。
アメリカ人の肥満を見て笑う人は少なくないけれど、
心が肥満体になってしまった日本人に
いまこそ響く<イン・ゲットー>のように思うのはボクだけでしょうか?

エルヴィスの優しい横顔が無性に懐かしく、切なくなる<イン・ザ・ゲットー>です。